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ブーゲンビリア

tamasii no hana  Photo by  P

 

眼にした瞬間、詩(うた)だと思った。

懐かしく、親しい、愛する人から贈られた愛の言の葉。

 

 

 


 

なに ひとつ 隠されているものは ない
神の美=自分
神の美を どう表現するか ではない
それは すでに表現されているから
神の美を どう味わうか だ。

神を前にして なに ひとつ 隠れられる 隠せるものは ない
神の美である 自らを どう楽しむか それだけだ
どのように 楽しむか は
どのように 神の美を 味わうか ということであって
どのように 自我を満たし
どれほど 自我の満足を味わうか ではない

あなたはすでに 神の美 であるのだから

神の美は 自我を 知らない
         存在させない
         存在させえない

自我を 存在させえるなら
それは すでにもう 神の美ではない
すでに 我であるものを
神の美 としている 自我である
自我を 自らの存在価値として 生を感じている限り
あなたは 神の美を 感じることは
一切ない
一瞬でもない

神の美を味わう それそのものが“生”である
生は神の美
それ以外の 生はない
のにもかかわらず それ以外のものを 生として とらえているならば
あなたは 死んでいるのである
この事実を はっきりと認め 死から生へと 移行しなさい

死も 生も すべては あなたが決め それをいつも 味わっている
神の美を認め 知ろうとするより
あなたが 死をゆるしていることを 認め 知りなさい
すれば おのずと 神の美は 表出する

死を 味わうのではなく 生を味わう
それが本来の あなたである
神=自分 を 感じ続けなさい
美を 味わい続けなさい
神や美を 感じずにいる その瞬間
あなたは 自らの我に 支配されている
神ではないものに


 

 

板書されたものをノートに記しているうちに

エナジーが上がってくるのを感じた。

眉間が圧迫されるように感じ、訳もなく涙がこみ上がる。

 

昨日の夜、いつものように蓮の夢の話を聴いたときのこと。

   蓮=dozen/Ren⇒http://ryu-and-ren.seesaa.net/

「今日のは長いよ」と言って、夢の中と覚醒に至る狭間に受け取ったこのメッセージを黒板に書いてくれた。

 

書き写しながら、自然とサナンダのことが想い起こされた。

キリストエナジーと関連があるのかなと想像してみる。

 

そして、自分が立つ場所のことを想う。

「本当に、神聖さに降伏できますか?」

その意志の固さと実際に動に移せるかを、試されている。

自分自身に。

選択のカードは「Yes」しかない。

「No」はとうの昔に自分で捨てている。

あとはどれだけ、その「Yes」のカードを喜びと感謝をもって、自分のために高く掲げて、進めるか。

やるのは自分でしかない。

 

「向かうべきところは、豊かな光あふれる、自らの愛ある道です」

 

すでにアクセスで何度もそう言われている。

決して恐くないよ、と。

なのに、顕在の私は恐くて恐くて仕方がない。

変化することが、成熟することが、すべてを明け渡して神聖さに降伏することが、

恐くて仕方がない。

その変化や成熟や神聖さへの降伏を望むのと同じくらいに、時にはそれらを凌駕するほどに、

恐怖が自分の中で大きくふくれあがる。

 

その恐怖を溶かすように、この「神の美」の詩は、私の中にすっと浸透してきた。

恐くないよ。恐くない・・・。

 

スピリットのささやきのように、優しく優しく、ハートに語りかけてくる。

 

7月7日に、半年という時間をかけてきた自分自身のイニシエーションに、三度目のトライをする。

その私にとって、いまもっとも必要なエッセンス。

「神の美を どう味わうか」。

求めるのは三次元的な成功でも称賛でもない。

私自身が、どのように感じ、味わうか。

その味わいを楽しむために、自分を愛するための動をとろう、と思った。

 

 

 

 

 

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2009.07.05 Sun l 日記 l top ▲
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